これまでの私の人生において最後まで読み終えた小説なんて両手の指に収まる程度だ。それほど小説には縁がなく興味が無い。でも近年まれに見る食い付き様で私が貪り読んでるのは村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド 上・下巻』である。これがどれほど面白いかは私が説明するまでもなく読んでみてほしい。ただ、それだけだ。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を鞄に入れて息子を保育園に送りに行った後近所のマックで朝マックした。下巻の最初のほうのページを読み進め次第に春樹氏の世界にのめり込む。食べ物が終わりカフェオレを堪能していると背後のドアが開いた。朝のファーストフード店ならではのまばらな客入り。人影が小説に影をちらつかせる程度でそれほど気にもならなかった。
「“あの”声を聞くまでは!!」
耳に飛び込んできたその声を聞いただけで私は振り向きもせずに凍りついた!!『ほっとこぉ~ひぃ~ねぇ~え』って、・・・・あいつだ!!! 以前働いていたレストランのお客さん。オイラのことを気に入っているのは明確で、これを読んでY子姉さんがゲラゲラ笑うのが目に浮かぶ(*ノД\*) 街でバッタリ会ってしまうといつも鹿児島訛りの大きな声で私の名前をうれしそうに呼ぶ・・・いやっ、正確に言うならば“叫ぶ”っと言ったところだ。
その人は50近いおっさんで、いつもICを注文していた。。。名付けて
ICおやじ
とりわけ卑猥なことを言ったりふざけた発言をするわけでもなく会話の内容的にはいたって普通の世間話程度なのだが、なぜか・・・こぅ・・・なんと言うか・・・生理的に受け付けない!?っとでも言えば良いのか・・?
話はマックに戻って、まぁとにかくそのICおやじの声が店内に響いた時はそりゃ~もぅ完璧にフリーズしてしまったわけで、頭の中はパニック状態。それほど会いたくない人物ってことだ。小説を読みながら様々な考えが頭を過ぎり、いやっ!ほとんど読んでない・読めない・読んでるフリをするのが精一杯!読んでるフリをしながらまず耳にかけた横髪を下ろして顔を隠した。それからテーブルに腕を置いて読んでいた小説を必然的に膝に下ろし顔を伏せた。不幸は重なるもので広い店内のガラーンと空いた無数の席がある中ICおやじは不運にも私の向かいのカウンターに背を向けて座った。もぅ逃げることも素でいることも出来やしない状況。
朝マックに来たことを今更後悔した。
視線だけを3cmほど上げればICおやじの顔の辺りを捉えることができ、私に気がついているのかいないのかが確認できるのだが、それすら恐い。視線すら上げられない。だって万が一目が合ってしまえば、あのでっかい声で嬉しそうに話かけて来る事が真っ先に想像できてしまったからだ。この緊迫した状況をどうにか切り抜ける方法を小説を読むフリをしながら賢明に考えた。まずは私に気がついているのかいないのかを確認する作業が極めて大事なポイントとなってくる。作業といってもただ視線を3cmあげればいいだけのことだが・・・しばし悩んだ。よっし!っと気合を込めて3cm視線を上げた!
視線を上げたんだぜぇ!!
幸いにもおやじと目が合うことはなかった。んで、っほ!っと一息。視線を戻す。さぁ、これからどうやってあの右手のドアまで辿り着こうかと考えた。荷物を抱えてそっと音も立てずに立ち去るか。。。それとも、私も相手に気がついていないフリをして普通にあのドアから出て行こうか。。。とりあえずすぐに立ち去ることを辞めて小説を読み続けることにした。なぜなら、まだカフェオレが半分以上残っているからだ!
小説はちょうど面白い場面に差し掛かっていて“逃げる”っと言った点では私の置かれている状況と少し似ていた(笑)んで、妙に小説に重ねて考えてしまう。逃げている対象は随分と違うけれどもね。かたや姿の見えない恐怖から逃げ、私は顔を合わせたくないICおやじから逃げている。そう思うと口元が若干緩みニヤニヤしちゃう状況だ。なんだかこの全ての状況が面白くなってきてしまい、「もぅバレてもいいやぁ~」ってぐらいに考えが狂ってきたwもう一度3cm視線を上げてみた。・・・・いない!?
ICおやじ消えたぁ????ΣΣ(゚Д゚ )
エエ!!??って一瞬驚いた。だってファーストフード店の安っぽいパイプイスって立ち上がる時にンゴゴゴンガガガって汚い音がするものでしょ??それなのに、、、それなのに、、、、。おやじ消えた!思わず店内をキョロキョロと探してしまった。安全を確認するためと、もぅひとつ「本当に消えてしまったんじゃないか?」っという現実的でない子供じみた考えを払拭する為に。
いた。いた。いた。いたぁーーーーーーー!!!
いつの間にか、パーテーションの向こう側の席にちゃっかり座ってた!座って居やがった!!もういてもたってもいられない!!速攻でコートを着てストール巻いて、でも普通を装って素知らぬ顔して、さりげなくケータイの時計で時間とか確認するフリして「あぁ、もうこんな時間」っていうオーラを放ちつつ意を決して席を立った。でも、パイプイスの汚い音が出ないように細心の注意を払いつつ。席を立ってしまえばこっちのもので「視線を合わせない」・「声を掛けさせない」・「足早に立ち去る」この重要3ポイントを何度も心で繰り返しながらトレイを片付けドアに手を掛けた。2枚扉を開けて冷たい外気をまとった瞬間「生きた心地」がした。ようやく小説の中の話と異常な状況の現実から開放されたのだっ!!映画のワンシーンに例えるならば『キューブ』の唯一生き残った人がキューブの中から出て生還した時のような開放的なスローモーションの世界。もしくは、『レオン』の最後みたいにゲイリーオールドマンが演じるスタンフィールドにレオンが撃たれ、薄れ行く意識の中で歪む街の景色か、っと言ったところだ。しかし、まぁ、私はICおやじに気づかれる事もなく無事にマックから“生還”したと言う意味では前者を選ぶ。
最後になりましたが、ICおやじは季節の移り変わりと共にHCおやじになっていたようです。